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筑波館
筑波山神社
大御堂
大本山護国寺別院 筑波山大御堂
延暦元年(782) 関東を一望に見渡す霊峰筑波山は、今から線二百余年前の桓武天皇の延暦元年(782)、徳一上人が筑波の地に在っり荒廃していた山頂二社を再建し、筑波山大権現と称し、中腹の地に堂宇を建立して、千手観世音菩薩を安置、知足院中善寺と号した。
江戸時代 その後、江戸時代に至り、御朱印五百石を得て復興し、中興の第一世となる。
慶長十九年 徳川秀忠の乳母の子、出家して光誉(こうよ)、学を修めて慶長十九年知足院の住職に転じて第二世となり,徳川家の恩籠を極めて厚くした。
3代将軍家光 3代将軍家光は筑波山上の両神社を建築し、さらに華美壮麗な大御堂、三重塔、鐘楼、楼門などを造建して輪換ぼ美を整え尊嵩した。
貞享三年 第十一世隆光大僧正(貞享三年)の代には、寺領千五百石の寺格を有する大寺院となった。
5代将軍綱吉 隆光は、徳川5代将軍綱吉の信頼を一身に集め、元禄元年神田橋畔に大伽藍を建立して、寺名を護持院と改称した。しかし、この護持院は享保二年(1717)火災に遭い焼失した。
江戸時代中期 その後、幕命により護持院は護国寺の境内に移され、本坊方を護持院、本堂方を護国寺と称し、護持院の住職が護国寺を兼務することになる。
筑波山には院代を置き寺務を執行させた。この時代により筑波山大御堂と護国寺とのかかわりが始まる。
明治維新 やがて徳川幕府が崩壊し、明治維新を迎え、政治機構が一変し、護持院は廃寺となる。廃仏毀釈の嵐が知足院中禅寺を襲ったのは、明治五年(1871)8月27日のことである。
大御堂、十一面観音堂など華美を尽した堂塔は打ち壊され、仏像、仏具経巻等は境内に積まれ焼却された。
本尊千手観世音は、尊崇する信者によって手厚く護られ、仮堂に移されたが、寺籍なき状態が続いていた。
昭和五年 昭和五年、護国寺持仏堂として維持することになる。その仮堂も昭和十三年七月三日の豪雨による天災地変に遭遇、濁流と共に一瞬にして埋没する。幸いにして、ご本尊は難をのがれ、損傷なく助かり、応急的な処置として民家に安置されることとなる。
昭和十五年 昭和十五年、佐々木教純貫首代に再建の認可を受け、護国寺と筑波町の方々と協議の上、筑波神社の左側の土地、風光明媚なる位置に大御堂の絶好なる敷地と定め、本堂、庫裡、山門、鐘楼堂を建立する計画が立案された。しかし太平洋戦争激化の状況となり、再建の夢はたたれる結果となる。
昭和三十四年 時移り昭和三十四年、岡本教海首代、再び大御堂再建計画が立てられ、筑波町の有志の方々の協賛を得て、藤代町の民家(総欅<けやき>作り)を買受け、千手観世音を安置するお堂に改修、昭和三十六年に完成した。
二十五番札所 現在 坂東三十三観音霊場大二十五番札所として、多くの巡礼者に信仰されている霊験あらたかな千手観音さまであります。
大御堂パンフレットより

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